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[長崎] 私を狂わせた店 15年越しの豚骨ラーメン

[長崎] 私を狂わせた店 15年越しの豚骨ラーメン

「15年越しの豚骨ラーメン」

 

20歳の頃、私は恋に狂っていた。
そして、一杯のラーメンに焦がれていた。

 

高校時代から付き合っていた彼は幼少時代を長崎で過ごした人で、いつでも誇らしげに故郷の話を聞かせてくれた。だから、ふたりの初めての旅行で長崎を訪れるのは、ごく自然な流れだった。

 

 

レトロな路面電車に、眠たげな真昼の繁華街。濃い色の空と入道雲。修学旅行で一度だけ歩いたことのある長崎の街は、どこもかしこも新鮮できらきら光っているように見えた。なかでも目を奪われたのは、電車通り沿いにあるラーメン屋。

 

「ここ、友達の親父さんがやってる店なんだ。福山雅治も来るんだぜ」

 

福山雅治はどうでもいいから、中学時代のあなたに会いたいよと言いたかった。今よりも少しだけ幼い横顔で、いつものように猫背でラーメンを啜る姿が見たかった。だからせめて、今から一緒にラーメンを食べようと提案した気がする。でも、その日の私たちは何故かラーメンを食べなかった。もっと観光客らしいもの、たしかガイドブックに載っているような有名店のちゃんぽんを食べにいったのだと思う。

 

 

後ろ髪を引かれながら、恋人とちゃんぽんを食べた。たったそれだけ。なのに、この日のことを、私は長崎を訪れる度に思い出すことになる。

 

あんなに好きだった彼とは、旅行の3年後にあっさり別れてしまった。私は就職してフリーのライターになって、結婚もして、いつの間にか2人の男の子の母になった。その間、仕事で何度も長崎を訪れたにも関わらず、あのラーメンを食べることは、とうとう叶わなかった。海鮮ちゃんぽん、卓袱料理、トルコライス……。長崎らしい“正しい”ご馳走をいただく度に、喉元まで出かかった「ラーメン屋さんに行ってみたいんです」という言葉は引っ込んでしまう。

 

 

ひとりでカウンターに座る勇気も、ついぞ出なかった。うっかり踏み越えてしまったら、全身全霊で恋をしていた幼い自分を裏切ってしまう気がして。そうやって、あの店のラーメンはいつしか、私にとって触れられない聖域になってしまったのだ。

 

だから、今回のコラムで「私を狂わせた店」というテーマを聞いたとき、真っ先にこの店を思い出した。15年の間に脳内で発酵して、狂おしいほど恋しくなってしまったラーメン。今、行かなければきっと一生、食べる機会はないであろうラーメン。行かずに、記憶のどこかに留めておいた方がいいのは分かっている。でも、中年に片足を突っ込んですっかり図々しくなった今なら、行ってみてもいいかなと思えたのだ。

 

 

住んでいる街から車を飛ばして2時間30分。夢にまで見たそれは、どこから見てもふつうの豚骨ラーメンだった。こってりした博多のラーメンとは少し違う、素朴でやさしい味。スープに涙がぽたり……と落ちることもなく、彼の友人のお父さんらしき大将に声をかけるでもなく、さくさくと食べ終えてさくさくと店を出る。大切なものを自ら投げ捨ててしまったような、いっそさっぱりしたような、不思議な開放感だけが残った。

 

長崎に着いて、わずか15分。あの夏の日から、15年と15分。目的を達成して手持ち無沙汰になった私は路面電車に乗って寄り道することにした。石畳の道をぶらぶら歩いていると、忘れていたはずの記憶が次々に甦ってくる。彼にとって東山手は格好の遊び場で、いつも天主堂の裏で鬼ごっこをしていたこと。トントンと呼んでいる幼馴染がいて、私にも会わせたいと言ってくれたこと。他愛もないおしゃべり。いわゆる、叶わなかった約束というやつ。そういえば、彼はこんなことも言っていた。

 

「麻子はきっと将来、物書きになるよ」

「もし小説を書いたら、最初に俺に読ませて」

 

 

創作活動をしていた訳でもない、小論文が得意な訳でもない。ただのぼんやりした高校生の私を、どうしてそんな風に買い被ってくれたのかは分からないけれど。図らずも本当に物書きの端くれになっちゃったよ。

 

心のなかでひとりごちて、それでも浮かんでくるのは懐かしい面影ではなく、保育園で給食を食べているはずの息子たちだった。今は煩いくらい纏わりついてくる、世界で一番ママが好きなきみたちにも、いつか特別な人ができるのだろうか。そして誰かの心に、こんな風に消えない思い出を残したりするのかな。

 

願わくば、それが幸福な記憶になりますようにと思う。彼らが、自分の生まれ育った街を愛して、いつか大切な人を誇らしい気持ちで案内できますように。36年の人生で経験したどんな恋愛よりも強く、切実に、そう思う。だから私は明日も、彼らの小さな手を引いて出かけるのだ。きみたちが住む街は、九州は、こんなに素敵なところなんだよと伝えるために。

 

 

気がつくといつの間にか、帰り道を辿っていた。今度の週末はどこに行こうかな、なんて考えながら。

 

 

※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

この記事のライター

井関 麻子

九州を拠点に活動するライターで2児の母。経済誌の記者やマーケティング会社、ホテル広報などを経て2009年に独立、現在は広告やタウン誌、PRプランニングなど幅広く携わる。

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